自分探し
今日も今日とて生きています。税込みです。
なぜ私はブログを続けているのでしょうか。今まで日記など、三日続いたこともないのに。なんだかんだといいながら、続けている意味は?書き続けている意味は?
なんでなんだろうなぁ…。
別れると言いながら、いつまでも別れない両親。
互いに愛はない、相手を女として・男としてみていないと言い、果ては互いを障害者やキチガイ呼ばわりしながら、なおも同じ家に棲み着いている意味。
さっさと別れてしまえばいいのに。
互いに罵り合い、自分の実家に戻っては年老いた親に縋る人たち。
私はどこに帰ればいい?
誰を頼ればいい?
あの人たちは、大事な大事なママが死んだら、どうするつもりなのか。
ここ数ヶ月、相手から告られて付き合っている彼氏。
付き合ったら、彼氏がとても弱い人だった。
彼曰く、「いままでなんとなく生きてきたけど、行き詰まってようやく自分探しをしようと思った。」
エンジニアになりたくて、営業もやりたくて、でも一番好きなことは企画で、休日にやっている農業の研究をビジネス化もしたくて、エンジニアになって「手に職」をつけたくて、エンジニアになるのは農業の研究を「いつか」ビジネス化するときに自分でできれば強みになると思うからで…。
でも、最近は農業の研究がうまく行っていないから、べつに農業をやめてもいいかなと思っているんだって。
好きにすればいいじゃん。
最初は真剣に聞いていたけど、疲れちゃったよ。
「君は僕にどうなってほしい?」なんて、聞くなよ。
それ、相談じゃないでしょ。自分の選択に、責任持ちなよ。
恋人ってなんだっけ。
これは「支え合い」なんだっけ。
なんで、この人が好きだったんだっけ。最近、ため息ばかりだな。
でもね。
それでも、心のどこかで、動じていない自分がいるんだ。
自分でも驚きなんだけど。まだまだ、生きていける。
親友の存在。今まで生きてきた中で、血縁より濃い絆を結んだ人たちがいる。
彼らは戦友であり、希望であり、もしかしたら、神ですらある。
その存在があれば、ぜんぜん生きていける。
嫌われても、自分でいようと思える。
自分って、絶対的なものじゃなくて、相対的な概念じゃないのかな。
他人がいるから、自分というまとまりに気がつく。
平等なんてないからさ。
配られた自分のカード。その色を、他人と照らし合わせて、自分なりにステ振りしていくしかないんじゃないの。
自分ひとりでどうにかなることなんて知れています。
人の気持ちだとか、世情だとか、考えたところでどうにもならない問題ばかり。
その一つ一つに悩んでいては、前に進めない。
誰かの顔色を伺って、作り笑顔で取り繕って、飼われるみたいな生き方はもう嫌だ。生きるも死ぬも他人次第なんて、やっぱり悔しかったのです。
泥臭かろうが、誰かから嫌われようが、私は自分の意志で、自分の人生を歩きたい。
自分からは死なない。
それだけです。