離婚という自由
私が小学生の頃から、父と母の仲は険悪でした。
母が、仕事を優先して子育てや家事を二の次、三の次にしたから。
収入は父が圧倒的に多く、母はパートよりも稼げないコンサルタントアシスタントでした。給料は定額で毎月8万円。彼女の稼ぎでは、家族はおろか彼女ひとり生きていくことはできません。
それでも、それにも関わらず、彼女は仕事を辞めなかった。毎日朝から晩まで家を空け、父や私が電話をかけてもいつも携帯は繋がらない。夜21:00をすぎた頃に一方的に家に電話をかけ「適当にごはん作っといて。もちろん、自分の分だけじゃなく、あの人と私の分も作るのよ。家に居る人間が作るのは当たり前よね?私は忙しいの」。そう言ってきます。
でも、冷蔵庫にはいつも何もありませんでした。そして食べ物を買うお金も渡されていませんでした。
母は土曜日も日曜日も関係なく、仕事に打ち込んでいました。忙しい、大変な仕事をしているといつも言っていました。
母がよく言っていたものです。
「私は子供の奴隷じゃないのよ」
理解できない話ではありません。彼女は子育てのために仕事を辞め、専業主婦として家を守り、子供を育てる人生は、自分の人生ではないと考えた。そういった生き方ではなく、社会人として働き続けることを選んだ。
ただ、子供を育てたいという意思もあった。だから両方やろうとした。でも上手くいかなかった。どちらかに絞ることはしなかった。しかし両方をうまくやるほど、彼女は器用じゃなかった。両方とも中途半端になった。
父は家庭を開けて子供を放ったらかし、仕事に明け暮れ、家計を支えるでもない母を妻として軽蔑しました。
仕事と子供を天秤にかけた話
母が事あるごとに、私に聞かせたエピソードがあります。
子供を産むと母が言った時、コンサルタントの上司のほとんどは反対した。子育てをしながら、片手間にできる仕事ではないから。子育てをするということは、100%を仕事に注げなくなるということだから。100%で挑めないなら、今後大きなキャリアアップは見込めない。少数精鋭でやっているコンサルタントチームに、中途半端な気持ちの人間がいることは良くない。多くの上司が、彼女にコンサルタント業を辞めることを勧めたそうです。
しかし彼女の直属の上司は、彼女の意思を尊重しようとした。彼女を信じた。そして母は、コンサルタント業と子育て、両方をやろうと決めました。
私が産まれて三年間、母は仕事を休んで私を「集中して」育てました。母いわく、「自分の意思で言葉を話せるようになるまでは、他人の手に渡したくないと思った。言葉が話せるようになれば、自分で話せるんだから、子育ては一段落する」。
そして私が3歳になると、母は私を人に預け、仕事に復帰しました。私は保育園だけでなく知人の家やホームヘルパーの家、市の施設などに預けられました。
私が3歳の頃、母はいつも通り私を施設に預けて遠方で開かれる会議に参加しました。会議は数日に渡って続き、その間母は家を空けてホテルに泊まる予定でした。その会議はコンサルタントチーム全体にとっても、非常に重要なものでした。しかしその時、母の元に連絡が届きました。
私が高熱を出して苦しんでいると。
母は迷った末、会議の途中で会議を放り出して新幹線に乗り、私の元に戻りました。その時、母の直属の上司は何も言わなかったそうです。
進んでいた商談はすべて水の泡。その事件で母は大きく信頼を失いました。
母はその時のことを振り返って言います。「あの当時は本当に浅はかだった。あなたはあの時私が帰らなくても死ぬことはなかったのに、わざわざ仕事を放り投げて戻ってしまった。そのせいでさんざん怒られたし、周りに迷惑もかけた。私はあの時子供と仕事を天秤にかけて、間違った選択をしてしまった。私には度胸がなかった。」
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でも、私は彼女が間違えたのは、その場の判断ではないと思っています。ツメが甘いんだと思います。子育てと仕事、その両方をやっていこうと決めたのなら、人より苦労をすることは当然です。子育てを立派にやることだけでも、大変で、大切なことです。そんなことは、分かっていたはずです。効率を考える。多くのセーフティーネットを予め用意する。まさか、を予測して、手を打たなければなりません。
母は夕飯を作る時、帰宅するとまずお湯を沸かしてお茶を淹れ、テレビを観ながらお菓子を食べて休憩してからお米を研ぐ人でした。つまり段取りが悪いんです。また、醤油がなくなってはじめて無くなったことに気づき、買い物に行く度に醤油を買ってくることを忘れ、半月たってようやく新しい醤油を買うような人でした。
彼女が子育てと仕事を両立するなど、到底できない話でした。
離婚という自由
先日父から電話が来ました。母と離婚するようです。
自分は家庭のために働き、お金を払ってきた。多くの時間を費やした。母にはもう気持ちがない。1人で、自分のために、自分の時間を自由に生きたいんだそうです。離婚して自由になりたいんだそうです。
でもね、その自由って、責任の放棄じゃないのかな。
母が言う「私はあなたの奴隷じゃない」も、
父が言う「離婚して自由になりたい」も、
私には「自分で決めて背負った責任を一方的に放棄したい」
に聞こえてしまうんです。
私はこの世界が好きだから、生まれてきて良かったと思ってます。
彼らを尊敬はしていませんが、憎んでもいません。
愛してはいませんが、感謝してます。
ただ、離婚をすれば、全部が終わるわけじゃないんじゃないかな。
3歳まで面倒を見たら、それで子育ての全部が終わるわけじゃないんじゃないかな。
いつだって積み上げるのは困難で、壊すのは簡単ですね。
手に入れて、いらなくなったらポイ。
ずっと大切にすることは難しいですね。
もう少しだけ、人を思うことが出来たなら。
互いを尊重しようと思えたなら。
バラバラになることは無かったのにね。
日曜日の食卓
これほど憂鬱な食事がありましょうか。
日曜日の夕食の時間は、私にとって極めて憂鬱な時間のひとつでした。
まず前提として、私の家では以下のようなルールが私に対して課せられていました。
- 食事中のテレビは禁止
- 食事中に電気機器を触ることの禁止
- 食事中に席を立つことは禁止
- 父親よりも先に食事に手をつけることの禁止
- 父親よりも先に食事を終えて席を立つことの禁止
- 食事中に話すことの禁止(これは私のみに適応、他の二人の会話の途中で話しかけられた場合のみ返事をすること)
- 食事中に不愉快な顔をすることの禁止(常においしそうな顔で食べなければならない)
- 食事を残すことの禁止(いかなる料理も、量がいかに多かろうと食べなければならない)
- 食事の順番を守ること(汁物から、三角食べなど)
- 極力音を出さないこと
並べてみると沢山ありましたね笑
一見、しつけとして全うなものもあります。
しかし苦痛なのはこれらのルールだけではないのです。
一番の問題は、このルールを決めている本人たちの食事マナーが最低だということ。
父
・母の料理は食べない。
・基本的に一人で酒を飲みながらAV鑑賞をしている。
・AVに切りがつくと、自分でご飯をよそって食べる。
・たまに言葉を発する。内容はもっぱら仕事の自慢話。(もしくは会社の同僚の愚痴)
母
・いつ仕事の連絡が来ても良いように、常にケータイと睨めっこ。電話が掛かってきようものなら食事を放り出して最低でも1時間は自室に引きこもる。
・自分はあっさりしたものが食べたいからと自分の都合で料理を作る。得意料理は白菜を塩水で煮たもの。酢をかけて食べる。無論まずい。
・たまに言葉を発する。内容は仕事の自慢か政治に対する愚痴。
想像できますか?
自分の部屋に引きこもれたならどれほど楽だったでしょうか。
ただ時間が過ぎることを願うだけです。食べ物を喉から流し込むのです。まずそうな顔をすることは許されません。残すことも許されません。ただ、目の前にあるものを笑顔で胃に流し込むしかありません。
三人は同じ場所にいるだけで、それぞれ別のものを食べています。これが家族の食卓と呼べるのか。なぜそこまでして同じ場所にいなければいけないのか。私にはわかりませんでした。
ただ、このおかげか、私は好き嫌いがありません。そして大抵のものは美味しく感じます。食事をするたびに、喜びを感じます。料理をすることも好きです。美味しい料理を作って、人と一緒に食べることに幸せを感じます。
これから先、私が家庭を「つくる」立場に立つことがあるならば。何があっても、こんな最低な食卓にはしたくないと思います。
根無し草の本懐
父は私に言いました。
「僕はお前のかあさんに騙されて結婚したんだ。お前のかあさんが騙したんだ」
母は私に言いました。
「あなたの父さんはマトモじゃない。精神が異常なの。狂ってるのよ」
私はいつも笑っていました。
母は辛いことがあると実家に戻り、父と母に話を聞いてもらいます。
父も辛いことがあると実家に帰り、母に慰めてもらいます。
私は誰に救いを求めて、どこに行けば良いのでしょうか。
私はなぜ生まれ、今日まで生かされたのでしょうか。
私は体が弱く、幾つかの病気を抱えています。本来私は、長く生き存えるべき人間ではなかったのかもしれません。それでも今日まで多くの薬を飲みこんで生きてきました。
私には故郷と言える場所がありません。
帰りたいと思える場所もありません。
「もう一度人生をやり直せるのなら、いつに戻りたいか?」
たいした人生を歩いたわけではありませんが、今まで過ぎた時間の中に、もう一度戻りたいと思える時間はありませんでした。
だったら、このまま歩くか、諦めて死ぬしかないわけです。私はとある一つの事情を除いて、自分から死ぬ度胸はありません。
願わくば、いつの日か。
そう、いつの日か。心がまことに安らげる、ふるさとに辿りつくことを。
いい子の内側
私はかつて、「良い子」だと言われていました。いつもニコニコして、キチンとしたいい子。正義感のある、勉強もするいい子。
でも、そんなの全部嘘っぱちでした。
私は人を騙すことに抵抗がありませんでした。嘘をつくことを日常的に繰り返していました。うまく辻褄を合わせてはいましたが、やがて自分でもどこまでが嘘だったかわからなくなりました。どこまでが嘘でも、そんなことはどうでも良かったのです。
私は物を盗むことにも抵抗がありませんでした。よく物を盗みました。売り物を盗むことよりも、公共のものや友達と呼ばれる人の物を奪うことが好きでした。
ゴミを漁ることが好きでした。廃品回収に出された物を漁っては、自分の家に持ち帰っていました。マンガの束や、服。捨てられたもの達からは、幸せな家族の残り香が感じられるんです。夢の欠片のように思えたのです。母は私がゴミを持ち帰っていることを知っていましたが、なにも言うことはありませんでした。
自分でも驚くほどに、私の倫理観は欠如していました。
いつも人の顔色をうかがい、その人にとってのいい子であろうとしていました。愛想を振りまいていました。でも内心では、人を傷つけることに何の痛みもありませんでした。むしろ、目の前で人が涙を流したり、苦しんでいる様を見ることは快楽でした。
小さい頃、随分と「社会貢献」という言葉を口にしました。「人のために、人を助けるために、もっと頑張りたいと思います」。でも、本当にその時の私が救って欲しかったのは、他ならぬ自分自身でした。
よく言われたものです、うちの子もあなたみたいなら良かったのに。ニコニコしていました。うまく騙せていると思っていました。本当にうまく騙されていたのは、目の前にいる人間ではなく、私だったのかもしれません。
キンカンをアトピーの傷に塗り込むと...
地獄の気分が味わえます^^
あ、最初に言っておきますが、この記事でキンカンをディするつもりはありません。キンカンは正しい使い方をすれば、とても有用な薬だと思っています。
正しい使い方をすれば。
子供の頃、毎年夏休みになると母方の祖父母の家に預けられていました。彼らは基本的にいい人でした。私が反抗せず、「いい子」でいさえすれば。
彼らは頑固で、自分が正しいと思うことは絶対だと信じていました。
そして彼らは私の持病のひとつ、アトピーに対してとある「間違ったこと」を信じていました。
アトピーの傷口にキンカンを塗り込むと、アトピーが治る。
嘘です。治りません。
毎日風呂上がりに、頭から足まで全身の傷にキンカンをタップリ塗りこまれました。トンデモナイ痛みです。もちろん泣き叫んで逃げようとしました。すると祖父が私の体を抑えて、祖母が塗り込んできます。
「お前のためにやってるんだぞ」
「薬程度でゴタゴタ言うな、情けない」
毎日です。
逃げ場はありません。
ちなみに実家に戻ると、タバコとかゆみの地獄が待っています。
どこに逃げればよかったのか、
どうすれば良かったのか、
今考えても解決策が見えません。
絶対エアコン使わないマンとアトピー・ぜんそくっ子の相性は最悪【夏編】
汗はアトピーの敵です。
正確には、汗を流すこと自体は体に良いのですが、ジメジメした肌と湿った服のままで長時間居ることが良くないのです。自分の汗がかゆみの原因になるとは驚きですが...苦笑
夏場の熱帯夜となるとシャワーを浴びても汗がとめどなく吹き出てきます。解決策は、汗を洗い流して清潔を保ち、体感温度を下げるしかありません。
冬編でも触れたように、我が家にはエアコンがありませんでした(実際には1機あったのですが、使うことは禁止されていました)
扇風機だけではとても凌げません。
汗で全身が常に痒かったです。つらい。
でも、本当の地獄は夏場の夜です。
タバコと暑さの二重苦
夏の夜、父が家に帰ってくる日は、心が憂鬱になります。
耐え難い暑さと共に、汗が吹き出し、全身を痒みが襲います。
保冷剤で冷やしてみたり、扇風機を当ててみても痒みは収まりません。
少しでも涼を求めて窓を開けると、父親が隣室で吸っているタバコの煙がすべて部屋に流れ込んできます。たちまち煙が部屋に充満し、今度は咳が止まらなくなります。喘息気味の時だと大変です。
息をしようにもタバコの煙で咳き込んでしまいます。酸欠で朦朧とする中、なんとか寝ようとしますが、止まないかゆみが全身を襲い、寝ることもできません。体の内側からも、外側からも蝕まれてゆきます。
心はすり減り、眠れぬまま朝を迎えます。
何日も、そして何年も、そんな夏を過ごしていました。
絶対エアコン使わないマンとアトピー・ぜんそくっ子の相性は最悪【冬編】
私の両親はエアコンを使わない主義の人たちでした。
というよりも、自分自身が必要だと思わないものは買わない主義の人たちでした。
「だって私は寒くないもん。」
母がよく言っていました。
そりゃそうです。彼女の部屋だけにはガスストーブが設置されており、常に暖かさが保たれていましたから。
でも、リビングには足元用電気ストーブが一つだけ。(彼女の足元を温めるためのものです)いつも室温は10度を下回っていました。もちろん加湿器などありません。
リビングですらそんな状態ですから、子供部屋にストーブなど買い与えるはずもなく。小遣いで買った小さなストーブの前で、コートを着込んで震えていました。
寒さと乾燥で、いつも喉が痛く、肌はあちこちが赤切れに。私は風邪をひくとすぐに喘息を引き起こしたり、鼻炎から気管支炎になってしまいます。 冬の喘息発作はなかなか大変です。なんとか呼吸をしようとしても、乾いた空気でまた咳き込んでしまいます。
乾燥してアトピー肌全身が痒かったり、かと思えばひび割れているところは痛かったり。ひび割れて血が滲んだ手と、傷だらけの身体と、咳が止まらない気管支。酸欠でやまない頭痛。辛かったんですねえ。
そんな状態で、家に一人ぼっち、母の帰りを待っている。
風の音か、自分の胸の音かわからない雑音が続いて、永遠とも感じられる時間がただゆっくりと流れていきます。
そしてある年、ついに私はやってしまいました。
風邪をこじらせて、肺炎になってしまいました。年末に高熱を出し、病院に運ばれる私。その場で入院が決まり、2週間ほど病院にいました。その時出されたご飯が毎日美味しくて、ちょっと幸せだったことを覚えています。
退院して家に帰ると、私の部屋には加湿器がありました。
お医者さんに注意されたのだそうです。あんたがひ弱だからよ、と睨まれたのを覚えています。
きっと私が死んだら、あの部屋にはエアコンが付いたんだろうなあ、なんて思っています。
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自分が感じない、他人の痛みを思うことって難しいですよね。
どんなに頑張っても、その人と痛みを分かち合うことなんてできないですし、「人の痛みがわかる」なんてことは、実際はありえないことなのだと思います。
それでも、人の痛みを思える人でいたいなあ。