私は友達が少ない
私は友達が少ないです。
私が在籍している大学は、全学部を合わせると毎年1000人ほどが入学します。ざっくり計算しても、私と同じ時期に4000人を超える人間が同じ場所に出入りしていたことになります。
…それだけ多くの人がいるにもかかわらず。
私がこの四年間で友達になれたのは、たった1人です。
とんでもない打率です。ベンチを暖めることもできません。なんなら応援スタンドすら場違いです。もちろん小・中・高の友達も極めて少ないです。
なぜ私の「友達打率」はこうも低いのか。改めて振り返ってみます。
2:4:2:2の割合
以前、「人の好意」に関する記事を読んだことがあります。概要としては、
- 出会う人間のうち、最初の2割の人は無条件にこちらを好いてくれる
- 次の4割の人は自分を好意的に受け入れてくれる
- 3番目の2割の人はどちらかというと好きではなく、積極的に関わりたくない
- 最後の4割は最初からこちらのことが嫌い
まとめると6割は好意的だよやったね!ワッショイ!というオチになるのですが、この割合、どう考えても私が生きてきた20数年間の実体験と噛み合っていません。
なぜでしょう。
- 友達を「つくる」ための努力をしなかった
- 友達の関係を維持するために、努力が必要だと考えていなかった
月並みですが、上記点が要因ではないかと思います。私は、友達は「つくる」ものではなく、自然発生的に「なる」ものだと思っていました。なんの努力もしなくても、同じ場所に毎日通っていれば、自然と「なっていた」。
受け身だったんですね。
でも、今になって、ようやく分かってきたことがあります。人と人のつながりって、ほとんどの場合、時間が経てば自然と薄くなっていくのですね。変わらないんじゃなくて。深まっていくのでもなくて。ただ、はなれてゆく。
それが自然なことなのでしょう。
惹かれ合えばくっついて、心が変わればはなれてゆく。出会いも、別れも、身体が先か、心が先か。どちらもあるでしょう。ずっと同じ関係が続くことの方が、きっと不自然なことなんだと思います。
意思がなければ、自然に抗って「友達」をつづけることはできない。
新しい人と出会うのは「自然なこと」。
そして、忘れて、離れてゆくのも「自然なこと」です。
変わらず、友達であること
もうずいぶん昔の話です。
私が中学生の頃、私には3人の友達がいました。
私たち4人は家庭環境や家族構成、趣味や性格もまるで違い、血液型もバラバラ。A、B、O、ABときれいに分かれていました。
それでも4人でいると不思議とウマが合い、いつも一緒にいました。
いつだったかは忘れましたが、元旦に4人で校舎にもぐりこみ、フェンスにもたれかかって初日の出を眺めたことがあります。眩しい朝焼けを眺めながら、何を話したのかはもう覚えていません。ただ、その日の情景を、今も鮮やかに覚えています。
彼女たちと出会ってからもう10年ほど経ちます。
普段は全く連絡をしませんが、数年に1度、誰かが「そろそろ会おうか」と言うと、手早く予定を合わせて集まります。
矛盾ですね。
彼女たちとは、変わらず友達であることが「自然なこと」なのです。
場所が離れることや、時間が流れることは、信仰にとって脅威ではありません。私は彼女たちを無償で信じています。自分以外の誰かを無償で信じることは、ときに自分自身への救いとなり得ます。
無償の友情、有償の友情
友達を「つくろう」とすれば、そこには作為がうまれます。
作為はエゴにつながりやすい。エゴを持てば、無償の信頼は生まれません。
友情には「無償の友情」と「有償の友情」の2種類があると思います。
私は人を信じ、まごころを捧げ、永遠を紡ぎたい。
夜間飛行
深夜の飛行機に乗って、ジョグジャカルタの街を後にした。眼下には極彩色の夜景が広がる。
大通りを行き交う車が連なり、脈を打つ。大通りは動脈。毛細血管が無数に広がり、街は静かに息づいている。
信長や秀吉、家康さえ夢想だにしなかった世界に、私はなんの苦労もなく至った。
「夜間飛行だね」
呟くように話しかけると、友はにやりと笑った。
きっとこの視点は、人よりも神に近い。私は神を知らない。それでも私は、間違いなく何者かに「生かされて」ここにいる。
地上数百メートルから見下ろせば、人の姿など虫のさざめきに過ぎぬ。愛し合おうが、殺し合おうが、たいした問題ではないのだ。
同じ時代に生まれた、私よりもはるかに有能な人間が、若い人間が、何人も死んでいく。世界は徹頭徹尾、不平等だ。有能な人間が早死にしたところで、それすらこの視点から見るならば「たいしたことはない」のだろう。
無数に蠢く生命体の、そのいくつかが世界を繋げるならば、それで未来は繋がってゆく。そんな存在に化ける一抹の、ほんのわずかな期待と見込みのもと、私は今日も生かされたのだ。
荷が重い
「やるべきこと」が重く背中にのしかかっていて、今すぐにでも潰れそうです。
ジャカルタで慣れない食事をしたためか、酷い下痢と吐き気に襲われました。さらに生理日が重なり、頭は朦朧としていました。でも日本に帰らねばならないので、急遽現地の病院にかかり、薬を貰って症状を抑え、ジョグジャカルタ空港に向かいました。
ジョグジャカルタでスコールに巻き込まれ、ジャカルタでの乗り換えに失敗しました。ジャカルタ市内で足止めを食らい、日本への到着が丸1日遅れました。
母は一昨日から1人で北海道へ旅行に行ってしまいました。実家には犬が一匹、放ったらかしになっています。1日到着が遅れる旨を母にメールしましたが、1日経っても返信はありません。
私が面倒を見なければ行けません。先ほど日本に到着したので、そのまま実家に向かいます。スーツケースはどうするのか?
新居の引越しの準備も進めなければいけません。住民票や、印鑑証明書を取って...。荷造りをして、いらないものを捨てて...。
それから、仕事で使う資格を3月中に取得するために勉強もしなくては…本当に合格できるのか?不安です。
月曜からは仕事に復帰しなければなりませんが、火曜まで母は帰ってきません。スーツケースはどうするのか?月曜の出勤はどこから?でも朝の散歩はしなければ…。出勤したら、手ごわい仕事にまた取り組まねばなりません。上手く出来るのか?ああ…
卒業式は自分一人で出るのですが、大学から何も連絡が無いことが不安です。大学に友達はいません。
父とは最低限の連絡しか取れません。母には電話が繋がりません。以前は大学のカウンセラーさんに話を聞いてもらうことができましたが、今は大学は立ち入り禁止期間。それもできません。
祖父母は両親の肩ばかり持ちます。兄弟はいません。
お腹が痛くて、心も痛くて、なんだか疲れてしまいました。私が動かなければ何も変わらないことは分かっていても、もう疲れた。考えるのが面倒です。
なんでそんな状態で旅に出たのか?...だって、じっとしてたら耐えきれないからです。身体と心を忙しさで追い詰めて、考える暇を奪わなければ、悲しくて生きられないからです。
どんどん悪くなっていきます。 なんでここにいるんだろう。なんでこうなっちゃうんだろう。ここからだ、と思えないんです。こんなことだから駄目なんですね。
旅に出ます
旅に出る前は、いつもに増して「 死」を意識します。
いつも死は側にある。そんなこと分かってはいるけれど、旅は「ここで死んでも後悔はないか?」なんて考えるキッカケになります。
人は生まれる時代も世界も選ぶ事は出来ない。
しかし、どう生きるかを決める事は出来る。
私が大好きなゲーム、ff零式の言葉です。でも、この言葉にはちょっと異議があって、人は、自分の人生のすべてに対して、どう生きるかを決めることはできないと思います。
幼い子供達が自分の人生を、自分の意思で、選択して生きることは本当に出来るのでしょうか。稼ぐ手段も権利もない非力な人間が選べる選択肢は、「今すぐ死ぬこと」と「支配された環境に従って生きながらえること」の二択しかないかもしれません。
以前私の尊敬する人が言っていました。
「人生の三分の一は生まれた環境で決まる。
残りの三分の二は本人の意思で変えられる」
この意見に私も同意します。しかもこれは「人生全体で考えた時の割合」であって、生まれた時は9割が生まれた環境で決まると思います。時間の経過とともに「生まれた環境」で決まる部分は減少してゆき、最終的には全体の三分の一に収まる。
いままで随分と「生まれた環境」に支配された人生を送ってきました。私は、どう生きるかを自分で決めて生きてきたのではありません。ただ目の前の痛みに耐え続け、生きながらえてきただけです。私が選択したことはただ一つ、「死を選ばない」ということだけ。
これから、自分の意思で旅に出ます。
私が決めたんです。私が望んだ。そしてこの旅は、友との旅でもあります。自分で人生を選びとって、その先に人と共に生きられる未来を見つけられたのなら、これほど嬉しいことはありません。
離婚という自由
私が小学生の頃から、父と母の仲は険悪でした。
母が、仕事を優先して子育てや家事を二の次、三の次にしたから。
収入は父が圧倒的に多く、母はパートよりも稼げないコンサルタントアシスタントでした。給料は定額で毎月8万円。彼女の稼ぎでは、家族はおろか彼女ひとり生きていくことはできません。
それでも、それにも関わらず、彼女は仕事を辞めなかった。毎日朝から晩まで家を空け、父や私が電話をかけてもいつも携帯は繋がらない。夜21:00をすぎた頃に一方的に家に電話をかけ「適当にごはん作っといて。もちろん、自分の分だけじゃなく、あの人と私の分も作るのよ。家に居る人間が作るのは当たり前よね?私は忙しいの」。そう言ってきます。
でも、冷蔵庫にはいつも何もありませんでした。そして食べ物を買うお金も渡されていませんでした。
母は土曜日も日曜日も関係なく、仕事に打ち込んでいました。忙しい、大変な仕事をしているといつも言っていました。
母がよく言っていたものです。
「私は子供の奴隷じゃないのよ」
理解できない話ではありません。彼女は子育てのために仕事を辞め、専業主婦として家を守り、子供を育てる人生は、自分の人生ではないと考えた。そういった生き方ではなく、社会人として働き続けることを選んだ。
ただ、子供を育てたいという意思もあった。だから両方やろうとした。でも上手くいかなかった。どちらかに絞ることはしなかった。しかし両方をうまくやるほど、彼女は器用じゃなかった。両方とも中途半端になった。
父は家庭を開けて子供を放ったらかし、仕事に明け暮れ、家計を支えるでもない母を妻として軽蔑しました。
仕事と子供を天秤にかけた話
母が事あるごとに、私に聞かせたエピソードがあります。
子供を産むと母が言った時、コンサルタントの上司のほとんどは反対した。子育てをしながら、片手間にできる仕事ではないから。子育てをするということは、100%を仕事に注げなくなるということだから。100%で挑めないなら、今後大きなキャリアアップは見込めない。少数精鋭でやっているコンサルタントチームに、中途半端な気持ちの人間がいることは良くない。多くの上司が、彼女にコンサルタント業を辞めることを勧めたそうです。
しかし彼女の直属の上司は、彼女の意思を尊重しようとした。彼女を信じた。そして母は、コンサルタント業と子育て、両方をやろうと決めました。
私が産まれて三年間、母は仕事を休んで私を「集中して」育てました。母いわく、「自分の意思で言葉を話せるようになるまでは、他人の手に渡したくないと思った。言葉が話せるようになれば、自分で話せるんだから、子育ては一段落する」。
そして私が3歳になると、母は私を人に預け、仕事に復帰しました。私は保育園だけでなく知人の家やホームヘルパーの家、市の施設などに預けられました。
私が3歳の頃、母はいつも通り私を施設に預けて遠方で開かれる会議に参加しました。会議は数日に渡って続き、その間母は家を空けてホテルに泊まる予定でした。その会議はコンサルタントチーム全体にとっても、非常に重要なものでした。しかしその時、母の元に連絡が届きました。
私が高熱を出して苦しんでいると。
母は迷った末、会議の途中で会議を放り出して新幹線に乗り、私の元に戻りました。その時、母の直属の上司は何も言わなかったそうです。
進んでいた商談はすべて水の泡。その事件で母は大きく信頼を失いました。
母はその時のことを振り返って言います。「あの当時は本当に浅はかだった。あなたはあの時私が帰らなくても死ぬことはなかったのに、わざわざ仕事を放り投げて戻ってしまった。そのせいでさんざん怒られたし、周りに迷惑もかけた。私はあの時子供と仕事を天秤にかけて、間違った選択をしてしまった。私には度胸がなかった。」
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でも、私は彼女が間違えたのは、その場の判断ではないと思っています。ツメが甘いんだと思います。子育てと仕事、その両方をやっていこうと決めたのなら、人より苦労をすることは当然です。子育てを立派にやることだけでも、大変で、大切なことです。そんなことは、分かっていたはずです。効率を考える。多くのセーフティーネットを予め用意する。まさか、を予測して、手を打たなければなりません。
母は夕飯を作る時、帰宅するとまずお湯を沸かしてお茶を淹れ、テレビを観ながらお菓子を食べて休憩してからお米を研ぐ人でした。つまり段取りが悪いんです。また、醤油がなくなってはじめて無くなったことに気づき、買い物に行く度に醤油を買ってくることを忘れ、半月たってようやく新しい醤油を買うような人でした。
彼女が子育てと仕事を両立するなど、到底できない話でした。
離婚という自由
先日父から電話が来ました。母と離婚するようです。
自分は家庭のために働き、お金を払ってきた。多くの時間を費やした。母にはもう気持ちがない。1人で、自分のために、自分の時間を自由に生きたいんだそうです。離婚して自由になりたいんだそうです。
でもね、その自由って、責任の放棄じゃないのかな。
母が言う「私はあなたの奴隷じゃない」も、
父が言う「離婚して自由になりたい」も、
私には「自分で決めて背負った責任を一方的に放棄したい」
に聞こえてしまうんです。
私はこの世界が好きだから、生まれてきて良かったと思ってます。
彼らを尊敬はしていませんが、憎んでもいません。
愛してはいませんが、感謝してます。
ただ、離婚をすれば、全部が終わるわけじゃないんじゃないかな。
3歳まで面倒を見たら、それで子育ての全部が終わるわけじゃないんじゃないかな。
いつだって積み上げるのは困難で、壊すのは簡単ですね。
手に入れて、いらなくなったらポイ。
ずっと大切にすることは難しいですね。
もう少しだけ、人を思うことが出来たなら。
互いを尊重しようと思えたなら。
バラバラになることは無かったのにね。
日曜日の食卓
これほど憂鬱な食事がありましょうか。
日曜日の夕食の時間は、私にとって極めて憂鬱な時間のひとつでした。
まず前提として、私の家では以下のようなルールが私に対して課せられていました。
- 食事中のテレビは禁止
- 食事中に電気機器を触ることの禁止
- 食事中に席を立つことは禁止
- 父親よりも先に食事に手をつけることの禁止
- 父親よりも先に食事を終えて席を立つことの禁止
- 食事中に話すことの禁止(これは私のみに適応、他の二人の会話の途中で話しかけられた場合のみ返事をすること)
- 食事中に不愉快な顔をすることの禁止(常においしそうな顔で食べなければならない)
- 食事を残すことの禁止(いかなる料理も、量がいかに多かろうと食べなければならない)
- 食事の順番を守ること(汁物から、三角食べなど)
- 極力音を出さないこと
並べてみると沢山ありましたね笑
一見、しつけとして全うなものもあります。
しかし苦痛なのはこれらのルールだけではないのです。
一番の問題は、このルールを決めている本人たちの食事マナーが最低だということ。
父
・母の料理は食べない。
・基本的に一人で酒を飲みながらAV鑑賞をしている。
・AVに切りがつくと、自分でご飯をよそって食べる。
・たまに言葉を発する。内容はもっぱら仕事の自慢話。(もしくは会社の同僚の愚痴)
母
・いつ仕事の連絡が来ても良いように、常にケータイと睨めっこ。電話が掛かってきようものなら食事を放り出して最低でも1時間は自室に引きこもる。
・自分はあっさりしたものが食べたいからと自分の都合で料理を作る。得意料理は白菜を塩水で煮たもの。酢をかけて食べる。無論まずい。
・たまに言葉を発する。内容は仕事の自慢か政治に対する愚痴。
想像できますか?
自分の部屋に引きこもれたならどれほど楽だったでしょうか。
ただ時間が過ぎることを願うだけです。食べ物を喉から流し込むのです。まずそうな顔をすることは許されません。残すことも許されません。ただ、目の前にあるものを笑顔で胃に流し込むしかありません。
三人は同じ場所にいるだけで、それぞれ別のものを食べています。これが家族の食卓と呼べるのか。なぜそこまでして同じ場所にいなければいけないのか。私にはわかりませんでした。
ただ、このおかげか、私は好き嫌いがありません。そして大抵のものは美味しく感じます。食事をするたびに、喜びを感じます。料理をすることも好きです。美味しい料理を作って、人と一緒に食べることに幸せを感じます。
これから先、私が家庭を「つくる」立場に立つことがあるならば。何があっても、こんな最低な食卓にはしたくないと思います。
根無し草の本懐
父は私に言いました。
「僕はお前のかあさんに騙されて結婚したんだ。お前のかあさんが騙したんだ」
母は私に言いました。
「あなたの父さんはマトモじゃない。精神が異常なの。狂ってるのよ」
私はいつも笑っていました。
母は辛いことがあると実家に戻り、父と母に話を聞いてもらいます。
父も辛いことがあると実家に帰り、母に慰めてもらいます。
私は誰に救いを求めて、どこに行けば良いのでしょうか。
私はなぜ生まれ、今日まで生かされたのでしょうか。
私は体が弱く、幾つかの病気を抱えています。本来私は、長く生き存えるべき人間ではなかったのかもしれません。それでも今日まで多くの薬を飲みこんで生きてきました。
私には故郷と言える場所がありません。
帰りたいと思える場所もありません。
「もう一度人生をやり直せるのなら、いつに戻りたいか?」
たいした人生を歩いたわけではありませんが、今まで過ぎた時間の中に、もう一度戻りたいと思える時間はありませんでした。
だったら、このまま歩くか、諦めて死ぬしかないわけです。私はとある一つの事情を除いて、自分から死ぬ度胸はありません。
願わくば、いつの日か。
そう、いつの日か。心がまことに安らげる、ふるさとに辿りつくことを。