いつかのまほろば
必要な愛の大きさはいつも同じではなくて、人生の時期によって違うんだろうなあと思います。
今日も今日とて生きてます。税込みです。
顔も知らぬあなたは元気ですか。
少しは笑ってますか。
先週風邪を引き、風邪は治ったものの気管支炎に罹ったようで息がくるしいです。
体の苦しさはどうでも良いのです。頭がぼやけていなければさしたる問題ではありません。薬を飲めばいずれ治りますし、治らなければそれまでです。
一ヶ月ほど前から、母から何度も電話がかかってきていました。私は何の用もないので、そのままにしていました。
しかし、あまりにしつこい。
ついに離婚か、と微かに希望をもって電話を掛け直すと、最近どうだとか内容のない話でした。
問題はそこからです。
風邪気味だと早々に電話を切り上げたのですが、
今日になって、母が直接私の住むシェアハウスに差し入れの段ボールをもってやってきたのです。
……なんて気持ちが悪い。
何を考えているのでしょうか。まさか優しさのつもりでしょうか。
必要な愛の大きさはいつも同じではなくて、人生の時期によって違う。
今になって思うのです。
おそらく、幼少期から10代までが、純粋に「与えられる」愛を最も多く求める時期なのだと思います。心から信頼できる人から、たっぷりと愛情を受け取ること。それはおそらく、将来、心の強さになる。人を愛する源になるのでしょう。
でも、もういいんですよ。
与えられるだけの愛は。
私はたくさんの人に会って、心を渡し合う強さを知った。
私はもう大人なので、自分の心に自分で水を与えることもできる。
もちろんそれには限界がありますが。
私がまだ小学生のころ、両親はいつも家にいなかった。
私が喘息にかかるたび、母はめんどくさそうに財布から1万円を取り出して、「これでタクシー呼んで病院行ってきなさい」と仕事に向かった。
夜に喘息で呼吸ができずにいる私のそばで、父は涼しい顔をしてタバコを吸っていた。
しっかりと覚えているんです。忘れてなどいないのです。
あの時、朦朧とした意識の中で、いつかのまほろばを願った。
本当のやさしさとは何か。
本当の愛とは何か。
いつか、そう、いつか。
この間心を交わすことができる大切な友人の一人に、両親のことを話した。
彼は笑って、
「シンプルにさ。君が苦しいと思うのなら、そう思ううちは会わなくていいでしょ。それは何も悪いことじゃないし、ただ素直でいればいい」
そう言った。
私は母の優しさを信じることができない。
ただシンプルに、彼の言葉と、彼が言う私の素直さを信じたいと思う。